昭和47年11月25日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
道理に合う信心。信心にも色々あります。道理に会わない信心がある。沢山あります。いやほとんど道理に合わない信心が多い様ですね。もう殆どと言うても良いくらいだと思うですね。教祖様のそのずば抜けておられる信心の、いわゆる考え方と言うものがね。素晴らしいという事は、この七十節を頂頂いても分かるです。人間は万物の霊長だから、万物を見て道理に合う信心をせよと。
どんなに考えても信心と言うものが、人間が本当に幸福になると言う事の為に、信心は私はあると思うんですよね。只私共が死んだ時に、宗教によらなければならないから、宗教があるのじゃない。宗教というのは本当に、人間の心が安らぎ喜びに満ちた生活をさせてもらうと言う事にあると私は思うです。ね。いわゆる人間の幸福という事のために、信心があるんですけども、例えて申しますと。
只もう本当に可笑しな成程教えを頂よりますとね中々いわば、金光教の御教えも、天理教の御教えも、まぁ仏教なんかでも、この頃お説教される時に、天地の道理なんかを説かれると言う話ですけれども、ほんならキリスト教やらにおいても、やっぱり愛の心を説かれる事になると、本当に教祖様のお説きになる様な、やはりまぁ吟味した教えが沢山あって、人間が成程幸せになる為には、そういう心掛けになったら良かろうという御教えは、沢山あるんです。
けれども何処にかですね、道理に合わない所があるんですね。何処にか可笑しいなと言う所がある。金光大神の御教えを頂いて参りますと、そのどうも可笑しいなと言う所がもう、それこそさらさら無いですね。そういう意味においてでも、所謂金光教の信心の、やはり普遍性と言うかね。人間である限りは、教祖金光大神の御教えを、本当に頂いて行じて行ったら、所謂幸せになれれる。和賀心になれれる。しかもその心にはおかげがもう、限りなく頂けれると、教祖は説いておられる訳なんです。ね。
例えばねそのいう事だけは素晴らしい事を言う。成程そういう心の状態になったら、その永う人間も楽だなぁ幸せになるだろうなぁ、ご利益も受けるだろうなぁと言うけれどもです。けれども万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと言う建前から行くとです。どうも道理に合わない。可笑しいと言う事になって来るですね。例えばほんならキリスト教徒か仏教とかという。
世界の大きな宗教においてしかりですから。例えば仏教なんか本当の仏教を極めて行こうとすると、やはり殺生と言うですかね、をしてはならない。または妻帯をしてはならない。もう本当に仏教の信心が、全国に例えばはびこったとするなら、もう人間の子孫は耐えてしまう様な感じですね。勿論そう言う事を本当に実行する人も、今時ありませんでしょうけどもです。そらまぁ魚は食べちゃならん肉は食べちゃならんと。
例えば言うような厳しい一つの戒律と言った様な物があるのですけれども、そんな事を守っておられる仏教信者も、先ず今頃は無いでしょう。けれどもね。可笑しいでしょうが。ね。ならキリスト教でもそうです。お酒は飲んではいけない。いわゆるその厳しい掟と言うですかね、十戒と言う物があって、その中に、そう云う物がある訳なんです。まだ他にも沢山ありましょうけれどもです。人間は万物の霊長として、霊長として考える時に、ね。人間が酒も飲まれん。
生臭きも食べられんと言った様な事。その事だけでも、どうも可笑しいと思うわけです。道理にいわば合うた信心じゃない。だから道理に合わん信心でも良いなら、それでも良い。けれども道理に合うた信心をさせてもらうと言う事になるとです。私はまぁ金光教だけじゃないだろうかと思うですね。道理にもう何処からどうしても、道理に合うておると言う信心は。教えの道理どの教えを頂いてもです、ね。そら可笑しいじゃないかと言った様な御教えが無い。まぁそれはさる事ながらです。
結局だから私共はそらだから、どうでも道理に合う信心をしなければいけんのですね。まぁ他所の事は別としてですが、まぁ此処に金光教の信心が本当に道理に合うた信心であるという事を言う為に、今申しました訳ですけれども。そこでほんなら金光教で信心させて頂いておりましてもです。道理に合わない信心をしておる人も、ほんなら沢山あるという事なんです。いやそれをそう教えておられるのに、道理に合う信心をさせて頂だかんならんと思うておる人が沢山はいないと言う事ね。万物を見て道理に合う信心。
最近は人間が機械に使われると、良く言われますね。人間が機械に使われる。ね。人間が機械を使うのかと思うたら、機械から人間が使われる。何処か狂っておる。何処か可笑しい。ね。だからと言うてそんなら最近は、歩け歩けの運動が東京あたりでは、そういうグループが出来てる。東海道をわらじを履いて昔の様に歩いて行くその、まぁこりゃ一つの趣味でしょうね。そういう会があるという事です。ね。
お弁当を腰にぶら下げて荷物はかろうてね。中々いわば、本当にま道理の合うだ生き方でしょうけれども、それがただ趣味と言うだけであったらいけないのです。というてほんならお互いが、機械力のそういう事だから、お世話にならんと言った様な事も、また出来ないのですけれどもです。その頂き方と言うものが、やはり道理に合うた頂き方をしないといけないと思うですね。頂き方を間違いますと、例えば今もご祈念前に、なんか天井のほうで、雷さんが鳴るごたる音がしよりましたがね。
結局頂き方を間違えた訳です。だからあげな音がしよるですね。言うならばスイッチの入れ方が悪かったとか何かでしょうね。例えばお腹を壊すと致しますかね。お腹が痛い下痢をする。そういう時にはやはりその手当てをやはり致します。先ず第一に食べ物のお粥でも軟く炊いたり。又はお菜でも梅干なら梅干で、そしてお粥さんを頂くと。そすとお腹がいうならば、お腹に傷があるとするならその傷が癒える。ね。
お腹が良くなる。だからそういう一つの、まぁ道理と言う物がですね、例えばそういう万物を見て道理に合う信心と仰るのですから。私共がまあいろんな難儀に直面いたします。困った事に出会う。そういう時には、やはり私はすぐ例えば、今も言った様な道理に基づいて、自分の生活のいわばあり方と云う物を変えて行かなければいけない。ね。そこに難儀を感ずる、ね。腹痛いを感ずる時には、やはり食べ物から変えて行かなければならない様に、ね。私共が難儀をそこに感ずるならです、ね。
そこでまた是は可笑しいぞと、すぐ気付かせて頂いて、改まった生活にならせて頂かなければ、おかげになりません。そういう生き方が、私は道理に合うた生き方だ、信心だと思うです。信心の稽古をさせて頂くという事はです。私共がその万物を見て道理に合う信心という事だけに、一つ焦点をおいておってもです。信心の稽古は出来ていくです。難儀な問題が起きる。その難儀な問題を、他のせいにするのではない。それを自分のね。腹の調子が悪いからだと気付かせて頂かなきゃいけない。
だから自分自身の腹の調子を変える事が先決である。ね。そのためにお粥さんも必要であり、梅干だけに絞らなければならんと言う事になる訳。ね。そこで例えば分からせて頂くというか、または体験させて頂くかという事はです、ね。成程人ではない自分自身が、いよいよ、助かる以外には無いと。昨日ある金光様のご信心を、ご信心をじゃない、先生をなさっておられる方から、電話が掛かって来た。
ある難儀な問題のお届けであった。ね。そしたらその電話器を取らせて頂いたら、あれは何とかと言うその落語家のあの顔を頂いた。噺家です。ね。ですから私はすぐ申しました事ですけれどもね。成程金光様の信心は話を聞いて助かる道と。ですからやはり金光様の先生は、結局話をする事になるけれども、いわば道理に合うた話をする。言うならば道理じゃ最もじゃと言う様に、その最もな話をする訳です、ね。
ですからなら話が上手でさえあればです。あぁ成程道理に合うた話じゃ、もっともな話じゃと言うて相手を納得させたら、おかげになるかと言うと、おかげにならんです。それだけじゃ。だから例えば信者が、そういう難儀なことに直面しておるのですから、ね。話して聞かせて、おかげを頂かせようと言う様ないうならば、金光様の先生が落語家でばしある様に、噺家になっちゃならんと、ね。そういう時には自分がもっと力を頂く、もっと自分自身が助かる。取次ぎ者自身が助かる子おに精進したらです。
その信者はたすかりますよと言う御理解じゃった。私はそういう御理解を頂いて、こらその先生だけの事じゃない、私自身も有難いと思うて頂いた。ね。言うて聞かせて分からせて、おかげを頂かせる道ではなくて、取次ぎ者自身がたすかって、ね。取次ぎ者自身がより助かって、より人が助かると言う事にならなければならない。なるほどおかげのあるとか、無いとかという事もです。教会によって違うけれども、それがご自分の力だと教祖が仰っておられる。
なるほどもりもりの力だと思うです。だから本当言うたら話はせんでも、もりもりに力さえありゃ人は助かると。ね。その助かる原動力というのは、取次ぎ者の力であり、取次ぎ者の信心によるのであり、その上成程道理に合う話、成程もっともだと相手を合点させる話が出来れば、鬼に金棒である。頂いてみると成程世間には、本当にお話が上手な人があります。金光様の先生の中にも、本当に泣かせたり笑わせたりして、もう一時間も二時間も話をなさっても飽かせん程しに上手な人があります。
かというてその先生のところで、信者が助かっておるかと言うと、助かっていないという事実があるのですから。ね。そういう難儀なお取次ぎをさせてもらう時に、話を言うて聞かせて、そして助け様だけじゃいかん。そういう難儀な事を持ち込まれたならばです。神様私自身がより助かる事の為に、私自身が今まで出来なかった修行もさせて頂きます。私が磨かせても貰います、改まらせても頂きますからと言う事にならなければ、信者は助からない。只今申します、私共は万物を見て道理に合う信心をする。
今申します様に腹痛を起こしたならば、先ず軟らかい物を頂かなければいけんね。お粥さんに梅干。今までは鯛のお刺身に硬いご飯に、それにお酒に、ね。というてそのまぁいろんな物を、どんなその贅沢な食べ物でも食べよった人でもです。一旦腹が痛くなったというたら、スパッと切り替えにゃいかん。ね。お粥さんに梅干に切り替えなきゃいけない。私共がです、ね。それはそれが道理でしょうが。ね。そうですか腸が悪い胃が悪い、お腹のせくならば、そらいっちょどんどんご飯を食べなさい。
どんどん酒を飲みなさいじゃいかんでしょうが。それじゃ益々悪うなる訳ですよ。ね。そこで例えば軟らかい物を食べたり、ね。お菜でも梅干なら梅干だけに切り替えます様にです。私共はそこに難儀を直面したならばです。その難儀を境にですスパッと切り替えにゃいかんです生き方を。改めにゃいけんです。ね。所謂改まった信心生活が出来させてもらう所からです、ね。お腹が癒えます様に。
軟らかいもの頂いておる内に、お腹が良くなる様にです。今そこに難儀と言うものがです、段々おかげに向かって行き、おかげになって来るのです。そこでほんなら道理に合うた信心によってです、信心は進んどるでしょうが。その難儀によって磨いたでしょうが。改まったでしょうが。今まで贅沢に贅沢しよったのが、スパッとほんなら贅沢をせんでと言う様に、回れ右の生活に入る事が出来るでしょうが。だけれどそこから生まれて来る体験が、信心の力になるのです。ね。
今日は私は万物を見て道理に合う信心と、まぁ万物を見て様々なそこに道理を感じます。成程成程と思う様な事が、万物を見ておる中にあります。けども今日は私はね。私共が難儀を感じた時。今腹痛を起こしておる時と思うてです、食べ物から改めて行かなければならない様にです、ね。私共がねどうぞその所をおかげを下さい、おかげを下さいと言うだけではなくて、改まって願わなければならないという事を聞いて頂いた。
ほんならその改まって願わせてもらう所から、おかげが頂けるその体験こそが力になるのだ。成程私が本気で改まりさえすれば良いのだ。私が本気で磨きさえすれば良いのだという事になる。誰彼ではない、ね。昨日、私がある先生にお取次ぎさせて頂いた様にです、ね。信者にどういう風に御理解、こういう問題ですかなりそれは成程、難儀な問題。いや難儀な問題だけではない。
その難儀な問題がその教会長先生にとっても、大変難儀な事に繋がる様な問題である。ね。そこになら先生が難儀を、その人によって感ずるのですから、ね。いわゆる教会長先生自身が改まる以外には無い。自身が、もっと助かるより以外に無い。ね。そこから信者も助かって行くだけではない、その事のおかげで自分自身も、一段分からない所が分かったという体験が生まれて来るのです。
道理に合う信心、ね。成程金光様のご信心は、私共が一生がかりで例えば、金光様の信心をさせてもらう訳ですけれども、一生の中にはどれ程もう伸ばさなければおかん、磨かさなければおかん、改まらせねばおかんと言う働きがあるやら分かりません。それは先ずは難儀です。困った事です痛い、痒い思いをする時です。私共が万物を見て道理に合う信心、ね。今私が申します様な生き方で行きさえすれば、成程信心はどんどん進んで行く。信心の稽古と言うのは、道理に合う信心という事だけでも。
信心の稽古は出来ると言う事になります。それを例えば改まりもせず、ただ願う事だけで、ただお参りをする、拝む事だけで、おかげを頂いておる様な信心では、何時までたっても堂々巡りと言う事になります。ね。その都度つどに私共が改まって行く。その都度つどにその事を磨く材料として、磨いて行くと言う生き方。それを今日は腹痛とお互いが、腹痛を起こした時の、いわば道理に合わせて聞いて頂いた訳です。ね。金銭に例えば不自由をすると、ね。
そんならまず今までの生活が、例えば日に百円であるならば八十円にも七十円にも、それでもまだ足らんならばその半分の五十円にでも、せなければならないという事なんです。ね。そして同時にです。是からよしそういうお金を例えば、今度十分に頂いてもです。決して贅沢やら致しませんと言った様な改まりがです。はっきりそこに打ち出されて行く生活を致します時に、おかげを言うならば、頂いたおかげを落とさんで済む信心が、がっちり出来て来る訳です。ね。難儀な問題。
今腹痛起こしてる時と思うて、ね。食べ物から、改めて行くと言う生き方。そこにお腹が癒えて来る。腹が痛いのが治って来る。ね。様に、私共の例えば難儀と言う問題、ね。どういう難儀な問題であってもです。その難儀な問題のたんびに、私共が道理に合う生き方をさせて貰うて、その難儀を克服して行くと言うおかげを頂かねばならん。そして結論するとです結局、自分自身が助かる以外には無いという事。
自分のお腹が痛みよったつが、ね。隣の人が良うなったっじゃ出来ん。自分自身が、お腹が痛いのだから。自分自身が難儀をそこに感ずるならば、ね。やはりお腹の手当てをしなければならん。為には、お粥さんでなからにゃならん様にです。ね。自分自身が助かる以外には無い。言うて聞かせて、その人が助かると言うのじゃない。ね。自分自身が助かるという事の方が早道であると同時に、ね。
自分自身のものになる。自分自身の力になる訳ですから。ね。そういう生き方をもって、信心を進めて行かなければならない。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。道理に合う信心をさせて頂くという、その事だけでも、信心は伸びて来る。信心は進んで来る、ね。勿論、信心が進んで来るから、おかげもやはり、進んで来る訳であります。ね。お互い、私共が一生ね。
様々な難儀に直面するのですけれども、困ったという事がありますけれども、その都度つどに、私共が神様に向かう信心が出来る。それも道理に合う信心と言うものを、身に付けさせて頂くから出来るのです。教祖様のこの教えておられる、万物の霊長。だから、万物を見て道理に合う信心という事は、もう、信心を進めて行く。まぁ、金光教の信心の、信心を高めて行く為の独壇場的な、これは御教えだと思おうですね。
どうぞ。